
公式ページから イベント情報
海と島の歴史資料館ギャラリーの催し
(海と島の歴史資料館より)
ギャラリーの催し(7月14日(土)〜9月29日(土))
「世界の帆船と和船」
〜帆船・和船を中心とした写真・模型の展示・解説など〜海と島の歴史資料館及びふれあい郷土資料館の無料開放について
海と島の歴史資料館(大望月邸)及びふれあい郷土資料館では、7月の「海の月間」にちなみ、次の期間、入館料を無料とします。
お気軽にお越しください。
・無料開放期間:7月14日(土)〜7月29日(日)(ただし7月17日(火)と7月23日(月)は休館日です。)海の日記念茶会
(海と島の歴史資料館より)
次のとおり、海の日記念茶会を行います。
ご近所お誘いあわせのうえ、ぜひご来館ください。
日時:7月15日(日)10:00〜15:00
場所:海と島の歴史資料館 茶室「桂月庵」
料金:500円
協力:平田社中の皆さん
※お茶券は資料館受付でご購入ください。
寄宿港で栄えた大崎上島の各港
「北前船」が、交易船として日本海に踊り出るのは18世紀後半
当時の日本は、幕府は江戸に置かれていたが、経済の中心は大阪、京都などの、いわゆる上方と呼ばれる地域であった。
蝦夷地、現在の北海道や東北からの物資は、もっぱら福井の敦賀、小浜の港を経由して上方に運ばれた。
敦賀、小浜から陸路を経由して琵琶湖に入り、琵琶湖の交易船「丸子船」に荷物を載せ、京都、大阪へ渡った。
しかしこのルートは、海と陸を何度も経由することから、荷物の損傷や、運賃コストがかさみ、新たなルートの開拓が待たれていた。
それが、山陰から瀬戸内を回って大阪に入る、「西廻り」航路である。
そしてこの西廻り航路に最初に挑戦したのが加賀藩三代藩主、前田利常であった。
1639年、加賀藩の蔵米を大阪に運ぶため、試験的に実施したものだった。これを機に前田家は、1650年代に入って大阪へ大規模な蔵米輸送を行っている。
その後、1671年に、河村瑞賢が幕府米を運ぶための西廻り航路を拓いたが、そもそもの生みの親は前田利常だったといえよう。
以来、西廻り航路は日本海交易の主流となっていく。
北海道から内地にもたらされた交易品。その最大の目玉は、ニシンと昆布である。
石川の船主たちは、そのニシンを求めて小樽、江差、松前に渡った。
隆盛を極めた北前船は、明治の半ばを過ぎると、衰退の一途をたどっていく。
汽船や通信技術の進展などで、より早く、大量に荷物や情報が各地を縦断するようになり、物流の主役の座を取って代わられた。
参考サイト 北前船〜未来海道ものがたり〜
動画
島の豪商たち
大崎上島は江戸時代から明治初期にかけて回船業で栄え、「安芸の国随一の回船の島」と呼ばれた。
十六隻を持つ宮本家の「因幡屋」と九隻を保有した望月家「御下屋」は島を代表する回船問屋で、北海道まで幅広く商売を繰り広げた。
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参考文献 回船問屋の子孫が遺産を寄贈
関連資料 槙肌運搬船、最後の出航 広島県大崎上島
槙肌 マキやヒノキの内皮を加工し、縄状にした造船の材料。板の合わせ目に詰めて浸水を防ぐ。
明石地区では1801年に、村人が大阪で習った製法を広めたとされる。
材料は主に奈良県から仕入れ、昭和初期には全国の7割を生産した。
関連資料 伊能忠敬の大日本沿海輿地全図最後の4枚2004年発見される
伊能大図彩色図
望月 圭介と日本の政治
1867年(慶応3年)瀬戸内海、竹原市沖に浮かぶ大崎上島東野村の生まれ。生家は廻船問屋で、13歳の時上京して、攻玉社、共立学校、明治英学校に学んだが17歳で帰郷し、家業を手伝う傍ら自由党に近づき1898年(明治31年)初当選、以来衆議院議員に13回連続当選した。
明治30年代は日清戦争の勝利で急速に成長した日本の資本主義が、帝国主義へ移って行く時期で、藩閥政府と政党との提携がはじまり、政党の力が次第に強まって行く時代であった。
衆議院議員となった望月は自由党に属したが、同党が1900年(明治33年)、伊藤博文総裁で立憲政友会となってこれに属しのち1918年(大正7年)、米騒動で倒れた寺内内閣のあとをうけ、原敬の日本初の本格的政党内閣が誕生すると幹事長に就任。のちの政治活動の基盤を作った。その後総務などで同党の重鎮として活躍、1927年(昭和2年)田中内閣で逓信大臣、翌年には内務大臣に転じた。大臣就任中治安維持法の改正を行い、それまで最高刑が十年であったものを改正により死刑をも課す事が出来るようにした。官僚から猛反対を受けたがこれを断行、官僚独善を強く訴え人々の支持を得た。
その後、政友会にあって、鈴木総裁を中心とする主流への反感を強め、1934年(昭和9年)政友会の反対を押し切って岡田内閣の内閣審議会に入ったため長年尽くしてきた政友会から除名され、他の政友会脱退者と昭和会を結成。翌1935年(昭和10年)岡田内閣で再び逓信大臣に就任。1939年(昭和14年)、政友会が分裂すると昭和会のうち山崎達之輔らの政友会出身者とともに中島知久平率いる政友会革新同盟(革新派、中島派とも呼ばれる)に復党。1940年(昭和15年)、政友会は大政翼賛会に合流。望月は太平洋戦争勃発年の1941年(昭和16年)1月没した。
人情大臣として敬慕されたが一面、息子が忠海町長だったため郷里に近い大久野島に毒ガス工場を誘致した史実もある。
同郷の池田勇人家は望月の支援者、また宮澤喜一の父・宮沢裕は望月の秘書官を務めるなどの関係があった。自身は総理大臣になれなかったが、門下から二人の総理を出したことになる。
現在、大崎上島の生家は保存改修し、資料館として一般公開されている。
出展 望月圭介 - Wikipedia
関連 池田勇人 - Wikipedia
宏池会 - Wikipedia
宮沢裕- Wikipedia
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場所 海と島の歴史博物館
参考動画資料
望月家の人々と家業
望月邸からみた建築
昭和初期の木江港
メバル港
昭和初期頃の大西港
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昭和初期頃の瀬井港
-----後記-----
昭和40年後半に一度、小学校の遠足で大望月邸を訪れたことがあった。
当時の管理状態は、雨漏りがするのだろうか、壁は一部分はげていたり全体に黒いススで汚れたイメージがありそれはひどいもので、さながら幽霊屋敷の印象が強かった。
所有者も変ったそうで、あれだけの栄華を誇った望月家にいったい何が起こったのか疑問に思った。
望月圭介も昭和16年死去してから30年経過して屋敷はこんな状態だったのだ。
確かに政治にはお金が付き物なのだが、栄枯盛衰とはいえここまでくれば一歩踏み込んでどんな人間模様がここにいたるまで、繰り広げられたのか知りたくもなった。
時間の関係で端緒しかお話ができなかったが、是非ともボイスブログでお話を放送したいものだ。
合併前に、この大望月邸の改修に数億円をかけて資料館としてスタートする記事がネットででたが、正直言えば、よくある合併前の駆込み予算のイメージが強かった。
それはひとえに 歴史の認識不足、理解力不足からくるもので、今では、この改修決定は間違いなく英断だったと思う。
自民党の保守本流の宏池会の前身がここからスタートしたのだ。
西回り航路による貿易が盛んなころから、二百数十年が経過して、今 現在 この場所にたって見ると、歴史のパズルが偶然だろうが、重なって見えてきた。
2004年には、伊能忠敬の大日本沿海輿地全図最後の4枚が発見されその中に大崎上島のものがあり、また2006年には、かってこの地で回船問屋「因幡屋」を営んでいた宮本さんが、諏訪神社のこま犬などを町に寄贈するなど、大望月邸を中心に少しずつではあるが、瀬戸内海の歴史が再認識されるよう時代は動いているように思える。
電子化が進んだ今でさえ、これだけの重要な文化財がまともなHPもなくそれにくらべ、アナログであった瀬戸の先人たちは、北海道まで交易の場を求めて旅をしていたとは、なんたるパワーかと驚愕するしかない。
もしかすると、昔の大崎上島人は誇り高い海の男がおおかったのかもしれない。
木江の厳島神社、大三島の大山祇神社、それとリンクして海賊の話と、おちょろ舟、瀬戸内海の海上交通を考えてみれば面白い事実が沢山隠れているのではないかと思う。
Tea Room
大望月邸にかれこれ、5回は訪問しているだろうか。
館長さんと思われる男性の方、女性の方、の熱心な説明は大変 心をうたれた。
そもそも、大望月邸のホームページは、町で予算を作らなくても、ちゃんと島にいれば、町民でもしっかりしたものは作れる。
大望月邸に関しての話題だが、5月に帰省した際に館長さんから面白い話を教えていただいた。
望月家の関係の方が偶然にも5月のゴールデンウィークに帰省され訪問されたそうだ。
話によると、多忙を極めた圭介氏は、中々子供と接することができなかったそうで、そういったことも要因だろうか、御子孫の人たちとの微妙な距離をうんでしまう結果となってしまったそうだ。
そのような経緯がありながら、なぜ大望月邸に今回訪問されたかというと、
枕元に夜な夜なでてきたそうだ。
御子孫は悩んで広島の占い師に相談すると、「祖先を大切にしないといけない。」と忠告され訪問につながったとのことだ。
話は、話として あくまで人の話なので真実は定かではないが、現在も望月圭介は、大崎上島を見続けていることは、心のどこかに置いていただきたいと思う。
ネット環境に関してhYouTubeに動画もあげているので、今年に入って動画をチェックした人が訪問されネットでとりあげられることが増え相乗効果はあがっているのかなと思える。
イベントなど頻繁に大望月邸で開催されているようで、施設の活用、認知度アップに期待したい。
櫂伝馬に関連しても、瀬戸内和船工房と舟宿「ひな」の物語など大変貴重で、記述内容も優秀なブログも数はすくないが、存在しているのだから一まとめにして深く掘り進めば、それだけで歴史の再認識につながる。関係者の方、また多くの船に関わった造船関連の方々、是非 熟慮の上、御一考あれ。
資料検証
北前船と菱垣廻船の文献を読んでいると疑問に思うことがあります。
北前船は、北海道から日本海を経て大阪に到達するルートで使われた船です。
蝦夷には、近江商人が沢山、安い人件費と豊な漁場を確保するため、商業開拓に出向いたのですが、その過程で中継ぎルートとして、金沢に代表する豪商達が登場することになりますが、それでは、同じ回船問屋として、はたした大崎上島の因幡屋、御下屋の役割はどのようなものだったのか?疑問に思います。
役割として、推測ですが、
1.北前船の瀬戸内海のルートの一部の中継ぎ業(代行業)として栄えたのではないか?
2.独自に商行為をおこなっていた?(しかし、大阪の商人、金沢の商人、近江商人と、強固な既存の契約ができあがっている場所に入れるスキはあるのだろうか?)
3.スポットで北前船の運行期間の薄い期間を主に業務をしていた。(巨大な富を得るためには、リスクの多い仕事しか回ってこないのでは。)
などなどです。
後ろ向きな意見ばかりですが、日本を代表する商人達と取引できるとなると、かなりのリスクがあるように思えてなりません。
また、屋号にも気になることがあります。望月家の「御下屋」ですが、あまりいい言葉ではないように思います。
因幡屋である宮本家の出身母体が、信州となっており、近江出身ではないことなど、どのような階層社会ができあがっていたのか興味があります。
この他に資料を読んでいておもしろことに気がつきました。
西回り航路をみると、江戸が幕府のお膝元でありながら、鎖国体制のもと、当時の文化の流入順位は、北海道、日本海、瀬戸内、大阪を中心であったこともあり、今でいう島の特徴としてあげられる閉鎖性などとは皆無な場所ではなかったのだろうかという点です。
大阪の薄味、ダシの文化が、昆布を初めとする北海道からの交易物であることから、食文化も地域別で参照していくとこれもまた隠れた接点がでてくると思います。
とくに昆布などは、東京の濃い味となった所以を考えると、大阪で物流のほとんどが管理されていたため、満足に江戸まで流通しなかったのではないだろうかとも推論できる訳です。
ない頭をそれなりにつかって、色々と推論しながら、構成を考えています。
面白いものがだせるといいなと思います。
後日、資料として、瀬戸内の海洋史を詳しく書いている本がないか、調べて見た。
沖浦 和光さんの書かれている、「瀬戸内の民俗誌―海民史の深層をたずねて」 (岩波新書) だと、書店で買い求めやすいこと、図書館にも蔵書としてあることが多いため、是非一読をお願いしたい。
過疎化が現実となった今、史実は史実として、再認識する作業は必要だろうと思う。
風化するには、まだ早すぎると思います。
